『永田町ラブロマンスⅱ』
「まずどちらに向かいましょう?予定通り総理官邸へ向かいましょうか?」
車内の空気にすっかり気分が落ち着いて、俺は運転手に行き場所を告げることさえ忘れていたらしい。
いつもなら、この長年親しんだ運転手にすら隙を容易く見せはしないものを、余程先ほどの行為で己は消耗したのだ
ろう。
慌てはしなかったが、軽く居住まいを正すように席を座りなおす。傍らに広げた書類に目を通しながら俺は運転手に
漸く言葉をかけた。
「いや。一度マンションでシャワーでも浴びてスーツを着替えるとしよう。官邸近くのマンションへ寄ってくれ…」
「では…そのように。千代田区のマンションへ向かいます」
聞きなれたいつもの返事が返ってきた後、車のアクセルが踏み込まれたのだろう。グンと軽く身体が背凭れに押し付
けられる感覚を覚え、窓の景色が滑るように流れ出した。
まず…マンションでこの汗とあの男の痕を流したい。
そうでもしなければ、今から剣の待つ首相官邸へと向かえるはずがなかった。
あの場である程度は拭ったものの、今も車内にあの男の精の匂いが漂っているような気さえする。
俺はそんな考えにもゾッとした。
「申し訳ありません…どうも渋滞に捕まってしまったようです」
本当に申し訳無さそうに運転手が俺に頭を下げる。こればかりは仕方の無いことだ。しかし、俺は焦っていた。何とし
てもマンションに立ち寄った上で官邸に向かいたかったものを…
このままでは、定例の会議に間に合わなくなる。どうしても今日はこの書類を剣に手渡して、会議の中心的話題にし
てもらう必要があった。
その重要な書類も今この手にある状態。今すぐの決断が俺には必要だった。マンションへ向かう際のロス時間はか
なり痛い。決断は早い方が良かった。
「かまわん、マンションには寄らなくても結構だ。このまま総理官邸に車をやってくれ、急いでな」
その時俺は、苦虫を噛み潰したような顔をしていただろう。よりによってこんな時に渋滞か…皮肉なものだ。
俺はどうやら、薄汚れたこのままの姿で剣に会いに行かねばならんようだ。
時折目に飛び込むホテルやビルの群れを恨めしく眺めながら、香水の一つでも携帯しておくべきだったか…と一人ご
ちる。
あの狸親父と過ごす時間を嫌がって飛び出してきたが、こうなると風呂の一つでも入って出てくるのが正解だったと
いう事になるらしい。
「気付く…かな…」
顔色一つ変えない自信はあったが、相手はあの剣だ。嫌な予感が全身を走るが…コレも仕事だ、と割り切る。
少なくても首尾は上場、仕上げをごろうじろというところ。
これでこの選挙戦は大方の目処がついた。
剣を裏切り、踵を返したオヤジ達が泡を吹く様を早く見たいものだと思う。
バレたところで、剣も目を瞑るべきなのだ。いや、寧ろ俺に感謝してもいいだろう。
そう勝手に一人納得し、腕を組み。生まれ出る不安を自分自身で拭おうと努力する。
もうすぐ官邸だ。いらぬ事は考えまい。今から処理する事は山ほどある。埒の明かない考えなどは捨て、今なすべき
事を俺はするだけだ。
剣に何食わぬ顔で挨拶するのだ、いつものように。そしてこの書類に目を通させ、すぐに入るだろう電話での吉報を
待つ。
そして慌ただしくなった中、ゆっくりトイレで身づくろいをし直せばいい。
俺はそんな胆略的な考えを何度も何度も頭の中で繰り返した。
その後大きく後悔する事になるだろうとは……真実、夢にも思わずに。
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